vanmor 寫:
干涉國家當中很多本來處於和平狀態,這些軍隊往往都是常備軍。而不是動員兵,那麼這些軍人本身就不是所謂的工人,農民,手工業者,職員。他們的職業是職業軍人。必然是以職業軍人的利益為出發點來考慮。
——笑了,常备军都是职业军人组成的?日本、德国、法国、俄国,哪一个国家常备军的下层士卒不是服普遍义务兵役的役男组成的。
你问问这里的台湾网友,他们服没服过兵役?他们都是常备军的一员,可难道都是职业军人吗?
此外,值得指出的是干涉国家大部分都在960年代末处于战争状态,而非和平状态。包括帝国、王国、联邦、玄国等国都是交战国,央国也在969年或970年背刺王联、参加了希菲尔大战。
而由干涉軍把共產主義思想帶回國的實例,我目前還沒發現。
——我之前举出的,法共的安德烈.马蒂就是典型的例子。另外捷克不是有亚罗斯拉夫.哈谢克吗?
当然,他们国内也有志同道合者。不过这与他们将共产主义思想带回国矛盾吗?
此外匈牙利的库恩.贝拉不是干涉军出身,但是一战战俘出身。克罗地亚的则是约瑟夫.布罗兹。这些人起到了类似的作用。
在罗马尼亚则是比萨拉比亚和特兰西瓦尼亚的赤卫队员们在这些地方被划给罗马尼亚之后带去了共产主义思想。
相比之下日本農民的生活顯然優於俄國。
——然后呢?阿信家的大哥不还是参加了社会主义者浩太领导的农民运动吗?
埔盐派遣军的日本军人,则情况如下:
このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極秘トシテ当路扱ヒ少数識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。同「絶叫書」の内容は全8節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。
「軍紀頽廃ノ実例」の節は、さらに「(イ)敬礼ヲ避ケル」「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の各小節に分かれている。
(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかったとされる[12]。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡状 州里駅より東清鉄道に達せる報告に日本兵は薪及鶏類を窃み又駅員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」[13])。また同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戦国ノ住民ニ対スル」ような態度を糾弾している。
「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な青年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社会主義」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。
治安当局は「過激派」による「危険思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では、「危険思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戦地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第72連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、また機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジヴォストーク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戦場ナラ彼等ハ命幾何アッテモ足ラン 弾丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」
当然日共领导人中并无西伯利亚经验者,比较著名的西伯利亚远征军参加者有普罗作家黑岛传治。
因俄國內戰而流亡的著名知識分子有……
——我可以举出数百个人名,但这又有什么意义?俄国有两亿人,知识分子起码也有数百万。这些人能代表大多数知识分子?
奧斯曼帝國屠殺150玩亞美尼亞人是主體民族對少數民族的迫害,而二戰虐待戰俘和劫掠平民都是在國外戰場發生的事情。而俄國內戰則不同。俄國內戰開創性的在敵我矛盾產生的基礎中加入了意識形態。使之與故有的民族,種姓,國家,宗教等並列,成為消滅對方的合理藉口。第一次使內戰上升到外戰的激烈程度。這是俄國革命之前所未有的。應該會超出干涉軍的預想,這也正是干涉軍成員未回國組建共產主義政黨的原因。
——回去读读《九三年》吧。“第一次”云云简直可笑。
這個問題你只要在維基百科檢索白系俄羅斯人便有相應的文章。但是具體比例不詳。
——好吧,不详。
你也许拿不出数据,不过我这里倒可以拿出一些数据。在目睹了你所谓的“灾难”之后,5万捷克斯洛伐克干涉军中有4000人倒戈加入了红军,占全军活下来的人差不多十分之一。另外我必须指出的是,捷克人的生活水平远远好于日本人。
对于细节上的问题我不想多说,不过还是随手查了一下WIKI:
斯塔索娃是贵族出身无疑(她本人是否是贵族就不好说了),因为她的祖父——著名建筑师Васи́лий Петро́вич Ста́сов是贵族(俄文WIKI:Родился в Москве в дворянской семье 24 июля 1769 года)。没有人规定贵族不可以从事其他行业,斯塔索娃家出过建筑师、音乐家和律师。他的父亲是沙皇亚历山大加冕礼二世加冕礼上的传令官。仅凭这一点即可知其家世。
捷尔任斯基是波兰共和国的士族,这些人的贵族身份沙俄是承认的(被剥夺的除外),所以他也是贵族的无疑。顺便,有关他是犹太人的说法完全不可信。因为波兰共和国的士族可以信奉任何宗教(包括去做一名穆斯林),但不得是犹太教。
阿.托尔斯泰是“转到红军方面”而不是参加红军,就他这身板红军会要么?但1923年也不算晚了——因为你拿来说事的高尔基出国,也不过发生在1922年而已。有人出国有人入国,一来一去,怎么就能认为布尔什维克不得知识分子支持呢?具体数据你有没有。
未来主义后来遭到肃整是正常的,托洛茨基认为他们只是同路人而已,其他布尔什维克估计也不会佩服他们的文学主张。不过三大流派之一支持苏维埃政权还不够吗?难道要全体拥护吗?可是这样的政权是哪里也找不到的。事实上,其他两大派(象征主义和阿克梅)也不是全然反对苏维埃。举例而言,象征派的大师勃留索夫在1920年加入了布尔什维克,并在教育人民委员部担任领导工作。
——笑了,常备军都是职业军人组成的?日本、德国、法国、俄国,哪一个国家常备军的下层士卒不是服普遍义务兵役的役男组成的。
你问问这里的台湾网友,他们服没服过兵役?他们都是常备军的一员,可难道都是职业军人吗?
此外,值得指出的是干涉国家大部分都在960年代末处于战争状态,而非和平状态。包括帝国、王国、联邦、玄国等国都是交战国,央国也在969年或970年背刺王联、参加了希菲尔大战。
士兵有義務兵役和志願兵役兩種,除了台灣和南韓事實普遍義務兵制度外。也有類似大陸,米國用志願兵作為常備軍。而在動員時才動員義務兵的。志願兵的士兵自然是職業軍人。普玄戰爭967年開始,只打了一年半。玄國970年的時候仍然是和平狀況。
——我都懒得多扯了。我之前举出的,法共的安德烈.马蒂就是典型的例子。另外捷克不是有亚罗斯拉夫.哈谢克吗?
此外匈牙利的库恩.贝拉克罗地亚的则是约瑟夫.布罗兹。
你所說的法共安德烈•馬蒂至今沒發現是誰。捷克的雅洛斯拉夫•哈謝克在入伍前就是無政府主義者,並且接觸了赤化思想。同時要指出,他參加的是一戰,而不是之後的干涉戰爭。他在1916年就被俘,不是干涉軍成員。鐵托也是在1910年就加入社會民主黨了。
相比之下日本農民的生活顯然優於俄國。
——然后呢?阿信家的大哥不还是参加了社会主义者浩太领导的农民运动吗?
你這句話是想講什麼啊,我說日本農民生活環境優於俄國,是國際之間的比較,跟國內企業無關。而且日本的赤軍活動規模不大並且最終仍然以失敗告終,說明其國內並沒有如俄國和大陸那麼深的接受度嘛。
因俄國內戰而流亡的著名知識分子有
——我可以举出数百个人名,但这又有什么意义?俄国有两亿人,知识分子起码也有数百万。这些人能代表大多数知识分子?
根據史料,沙俄1914年才一億六千五百七十萬人口,沒有到兩億人。你的數據從何而來。我相信你也可以說出幾百個留在蘇聯的知識分子。但是也並不表示這些知識分子就能代表整個階層的態度。而且,哪些是傾向紅軍,那些是無態度的,那些被迫都無法統計。因此就談不上知識界是支持布爾什維克的。
——回去读读《九三年》吧。“第一次”云云简直可笑。
俄罗斯学者估计,在1917~1922年间,苏俄损失人口达1 200多万,其中军人损失近80万,其余死于饥荒、疾病、恐怖事件(200多万人被迫迁居国外)。法國大革命的激烈程度遠遠不如。不知何處好笑。
這個問題你只要在維基百科檢索白系俄羅斯人便有相應的文章。但是具體比例不詳。
——好吧,不详。
你也许拿不出数据,不过我这里倒可以拿出一些数据。在目睹了你所谓的“灾难”之后,5万捷克斯洛伐克干涉军中有4000人倒戈加入了红军,占全军活下来的人差不多十分之一。另外我必须指出的是,捷克人的生活水平远远好于日本人。
捷克1918年之前還是奧匈帝國的屬地,請問捷克人的生活水平是怎麼統計調查來的。生活水平比日本好又是怎麼計算出來的。捷克干涉軍實際上就是捷克軍團,是以捷克和斯洛伐克戰俘為主體編織而成的軍團。在一戰中已經為沙俄效力。因為作戰勇猛而擴編至五六萬人。這些人中間四千人加入赤軍跟干涉軍是否會將社會主義帶回本國無關。
埔盐派遣军的日本军人,则情况如下:
このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極秘トシテ当路扱ヒ少数識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。同「絶叫書」の内容は全8節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。
「軍紀頽廃ノ実例」の節は、さらに「(イ)敬礼ヲ避ケル」「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の各小節に分かれている。
(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかったとされる[12]。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡状 州里駅より東清鉄道に達せる報告に日本兵は薪及鶏類を窃み又駅員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」[13])。また同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戦国ノ住民ニ対スル」ような態度を糾弾している。
「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な青年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社会主義」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。
治安当局は「過激派」による「危険思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では、「危険思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戦地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第72連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、また機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジヴォストーク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戦場ナラ彼等ハ命幾何アッテモ足ラン 弾丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」
你所引紅字部分的意思是說,所謂的社會主義氣氛的高漲並不是被敵人感化了,而是無知的青年將校常常下達無理的命令,呵斥士兵。士兵一旦口吐怨言就斥之為社會主義,並排擠此人。而指揮官暴虐士兵及被虐待士兵的不滿情緒就是所謂的社會主義氣氛高漲的由頭。